偉人

河村瑞賢の生涯と業績 その6

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銀山経営

これまで河村瑞賢が手掛けた航路開拓と治水事業について述べてきたが、瑞賢はさらに銀山の経営も手掛けており、銀山事業も成功に導いた。

高田藩は1657年から1681年まで上田銀山という銀山(銀鉱石を産出する鉱山)を経営していたが、藩で起こったお家騒動(越後騒動)により高田藩は取り潰しとなったため、銀山の経営は一時中止されていた。

1684年に須浜屋又兵衛が5年契約で上田銀山の経営を請け負っていた。

1689年に幕府が瑞賢を派遣して周辺を調査させたところ、上田銀山のそばの只見川をはさんだ会津藩領に白峯(しらふ)銀山を発見した。幕府は両銀山を直轄経営として、須浜屋又兵衛との契約終了と同時に、両銀山の経営を瑞賢に一任した。上田銀山と白峯銀山を合わせて大福銀山と呼ばれた。

瑞賢は病のため、わずか3年で経営から退いていたが、瑞賢により銀山経営の基礎が作られ、経営が代官に引き継がれた。1698年(元禄10年)には1044貫(約4000kg)の銀が幕府に上納されたとの記録が残っている。江戸時代末期まで多くの銀が採掘され、幕府にとって重要な銀山の1つであったことは間違いないだろう。

銀山では下記の4つの業務が行われていた。

  1. 鉱石を採掘する(採鉱)
  2. 採掘した鉱石から不要な鉱物を取り除く(選鉱)
  3. 鉱石から銀を取り出す(製錬)
  4. 純度の高い銀を抽出する(精錬)

最も過酷であったのは「採鉱」であり、下記のような問題があった。

  • 坑内の換気が不十分で、坑内で酸欠になる(不通気)。
  • 採掘している場所から地下水が湧き出てくる(湧水)。
  • 坑道の崩落
  • 坑内では採掘する際に出る粉塵などが充満しており、それらを鉱山労働者が吸い込むことで塵肺を起こしていた。当時は気絶(けだえ)と呼ばれていた。また、当時は坑内でエゴマ油や菜種油を燃やして灯りとしていたが、それらから出る煙も呼吸器疾患を引き起こしていたと考えられる。

銀をより多く採掘して利益を上げることが銀山経営の目的であるため、瑞賢は作業の効率化を行ったが、それに加えて上記のような労働災害に対応し、銀山労働者の安全を優先した労働環境の整備を重視した。労働災害が起こった際の補償についても積極的に取り組んだと考えられる。鉱山労働者を守ることで、労働者が安心して仕事を続けられ、結果的には長く安定した業績を上げることに繋がったのではないかと推測される。

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