河村瑞賢の生涯と業績 その3
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畿内治水事業
淀川治水事業
畿内では淀川の氾濫による水害がたびたび起こっていたことから、幕府は1683年2月に稲葉石見守や彦坂壱岐守、大岡備前守などを派遣し、治水対策を目的として畿内の河川を巡視した。瑞賢もこの巡視に参加した。
淀川には上流から流れてきた土砂が溜まってできた砂州が多く形成されていたが、淀川河口部にあった九条島という砂州が川の流れを妨げていることにより、淀川下流でたびたび水害が起こっていることが明らかとなった。幕府に治水工事を一任された瑞賢は九条島を開削し、1684年に中央を直進する新しい川を通した。この新川は「安らかに治まるように」との願いを込めて安治川と命名された。
この治水工事によって西国からの船が安治川河口にできた港に入ることができるようになり、大阪の水運が発展した。この頃に堂島や曽根崎などの新しい土地にできた。
大和川の浚渫
旧大和川は淀川に合流しており、しばしば洪水が起こっていた。このため、洪水に苦しめられていた農民が幕府に大和川の付け替えを嘆願していた。瑞賢は大和川の付け替えには消極的で、淀川河口部の流れを改善すれば大和川の水害は防ぐことができると考えていた。また、大和川が淀川から分離すると、淀川下流での水量が減少することで大阪の海運に影響すると考えたと思われる。このため瑞賢は大和川の付け替えは不要であると意見を述べ、上記の安治川の開削に加えて、大和川の淀川への合流部の直線化と川幅の拡張を行った。
瑞賢は海運を重視して治水事業を行ったと考えられる。
1699年に瑞賢は病没するが、その後も大和川の洪水は治まらず、幕府は1704年に大和川の付け替え工事を行っている。