偉人

河村瑞賢の生涯と業績 その4

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越後高田藩の殖産興業のコンサルティング

1666年2月1日に発生した寛文高田地震が越後高田の城下町を襲い、城や侍屋敷が倒壊し、多くの死者が出た。この地震による被害は甚大で、高田藩は藩の復興に幕府から五万両を借り受けた。その後、藩の財政は悪化し、藩の財政難を改善するため家老の小栗美作は新田開発や特産物振興、銀山開発、直江津築港などに取り組んだ。

財政再建を中心にした藩政改革のなかの1674年に、瑞賢は越後高田藩に招かれた。瑞賢が招かれた理由は小栗美作が行う中江用水開削や直江津築港、関川の浚渫(海や川の水底の土砂を掘り出すこと)、銀山開発などの事業への助言であったと考えられる。瑞賢は高田藩に3か月間滞在した。

中江用水

高田平野は関川とその支流の保倉川の下流部に広がる平野であるが、新田開発にはさらに水量が必要であることから、高田藩は中江用水の開削を計画した。関川は日照りが続くと渇水となることが多かったため、安定した水源を求めて小栗美作らは苗名滝と野尻湖などを視察した。このとき瑞賢は顧問としてこの水源調査に同行した。

中江用水の総延長は約26 kmで、5年の歳月をかけて完成した。中江用水は通常時も野尻湖から池尻川を通じて関川に水を流していたが、干ばつで関川の水量が減ると野尻湖からさらに取水していた。この中江用水は高田藩の石高を大幅に増加させた。

直江津築港

関川は流量不足により河口付近に土砂が堆積する傾向があった。このため保倉川の河口を関川に付け替えて、関川の流量を増やし、河口の埋没を防いだ。また、関川の川ざらいも行われている。これらにより関川河口には大船が出入りできるようになり直江津港が開港した。

保倉川の付け替えは、大瀁や大潟の湛水(溜まった水)を除いて新田開発を行うことも目的としていた。

史料は残っていないものの、瑞賢は高田藩以外にも治水、築港、殖産興業などのコンサルティングをやっていたと予想される。

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