河村瑞賢の生涯と業績 その1
今回は江戸時代に奥羽海運(東廻り航路、西廻り航路)の整備や畿内治水を行った河村瑞賢の生涯と業績について「勝手に精査」してみよう。
1618年、河村瑞賢は伊勢国東宮村(三重県南伊勢町)生まれた。
13歳で江戸に出てからは車力(車両を引いて荷物を運ぶ仕事)として生計を立てた。若い時に様々な職業を経験したようであるが、なかなか芽が出なかった。
そんな瑞賢に転機となる有名なエピソードがある。
ある日瑞賢が品川あたりの海岸を歩いていたところ、海岸にたくさんの瓜や茄子を見つけた。それらはお盆の精霊送りで流された野菜であった。瑞賢はそれらの野菜を拾い集めて持ち帰り、塩漬けにして漬物を作った。その漬物を車力や人夫に売り始めたところ、漬物は人気となり、その後の商売の資金を得ることができた。
当然それらの野菜はお盆しかタダで拾い集めることができないため、その後は近所の農家で買い取って漬物を作って売ったものと思われるが、このエピソードから瑞賢が非常に機転の利く人物であったことが分かる。
その後、瑞賢は20歳を過ぎる頃には材木商を営むようになっていた。
1657年3月2日、瑞賢が39歳の時に江戸を未曽有の大火事が襲った。明暦の大火と呼ばれる大火事は本郷本妙寺より出火し、江戸の6割を焼き尽くし、一説には10万人が死亡したと言われている。明暦の大火は日本最大の火災事故であり、多くの人にとっては悲劇であったが、瑞賢はこの悲劇を自らのチャンスに変えた。
1657年3月2日、江戸で明暦の大火が発生。多くの人が家を失い、命からがら逃げだした人々は明日のことなど考えることもできず途方に暮れるなか、瑞賢だけは別のことを考えていた。瑞賢も自宅が全焼したにもかかわらず、瑞賢は手元にあった小判を持って急ぎ木曽に向かった。火事で多くの家屋が焼失し、江戸の再建には大量の材木が必要となると見越して、木曽で大量の材木を買い付けた。しばらくして他の材木商が到着した時には、多くの材木に瑞賢の極印が彫られおり、材木商たちは瑞賢から材木を購入するしかなかった。瑞賢は買い付けた材木で巨額の富を得て、その後分限者(大富豪)となった。
木曽に向かう時に、自宅の床下に隠していた小判を掘り出して持って行ったかもしれないけど、大量の材木を購入できるほどの小判を持参できたとは思えない。そんな不利な状況で瑞賢はどんな交渉をして大量の材木の購入権を手に入れたのだろうか。このエピソードは瑞賢の先見性を示すだけでなく、瑞賢の高い交渉力も示したものではないだろうか。
瑞賢は明暦の大火からの江戸の再建に尽力した。さらにその後、幕府や諸大名の土木建築を請け負い、彼らの信頼を得て、やがて幕府の御用商人となった。
明暦の大火の後、江戸の人口はさらに増加し、食料の調達が問題となった。幕府は奥州の御城米(幕府直轄地である天領の年貢米)の江戸への運送を考えた。実際には以前から幕府は商人に業務委託していたが、輸送コストが高かったり、海送にトラブルも多かったことからうまくいっていなかった。そんな時に瑞賢に白羽の矢が立った。瑞賢は廻船業未経験で、奥羽地方での事業も行っていなかったことから、幕府がなぜ瑞賢に依頼したのか詳細はわからないが、幕府は瑞賢の仕事ぶりから信頼していたと思われる。
東廻り航路の整備
御城米は荒浜で船に載せられ、平潟、那珂湊、銚子を経由して房総半島の小湊まで輸送される。小湊から直接江戸に入らず、下田もしくは三崎に向かい、そこで風待ちして江戸に入った。
東廻り航路が整備される以前は、「内川廻し」と言われる利根川を利用した航路で御城米は銚子から江戸に運ばれていたんだ。銚子で御城米を小さな川船(高瀬舟)に積み替えて利根川を遡り、関宿で江戸川に入り、江戸川を下って隅田川まで輸送された。この経路では多くの手間と時間がかかっていたんだよ。
瑞賢は実際にはどのように航路の整備をしたのですか?
瑞賢は、①航行可能で安全なルートの整備、②航行の安全確保、③航行に必要な施設や設備の整備を行ったんだ。
①航行可能で安全なルートの整備
- 地理的条件や気象条件の調査を行った。
- 作成した海図で危険な場所を避けて航行し、座礁を防いだ。
②航行の安全確保
- 堅牢な商船を使用し、熟練した水夫を雇用した。
- 波や風が穏やかな季節(4~6月)に航行した。
- 満載喫水線を決め、貨物の過積載による沈没リスクを減らした。
- 海難事故発生時の対応と海難事故への補償。海難事故で水夫が亡くなった場合には、その妻子の生活を保証した。
③航行に必要な施設や設備の整備
- 寄港地を設け、寄港地には米蔵を整備した。
- 寄港地の入港税を免除した。
- 寄港地に立務場(海の関所)を設置し、浦役人が船や貨物、人の出入りを管理した。
瑞賢による航路整備により、安全・迅速・確実な海運が実現したんだ。